「10月に日本に帰ってもらうことにしたよ。」
この一言で、私の心の中の何かがぷっつりと切れた。今思えば、上司のこの一言が、起業への最初の伏線だった。それは、これが私にとって、それはないだろうと思える通達だったからだ。
当時私は、ソニーアメリカ本社からスピンオフした、オンラインビジネス運営会社のオンライン販売ディレクター。当時売れないと言われていたAV機器の売り上げを、半年で7倍にした直後の話だった。そもそも、鳴かず飛ばずだったAV機器の売り上げをあげろ、できなかったら日本に帰す、とふっかけて来たのも、この上司だった。
当時、パソコンやデジカメはネットで売れていたが、テレビ、ステレオなどの一般AV製品は、さっぱり売れなかった。そんな折上司は、当時事業戦略ディレクターだった私にこう言った。
「事業戦略も大切だけれど、私はセールスができるかどうかで人を判断するよ。4月からは事業戦略は他に任せるから、AV製品のセールスをやってみて。
それで結果が出なかったら日本に帰ってもらうから。」
この上司が、私を日本に帰したがっていたのは分かっていた。そのころは、口を開けば私の日本への帰任を口にしていた。
背景に、風通しの良かった会社に、日本本社で新社長が就任してから、派閥が出来始めたことがあると思う。パソコン出身と、AV製品出身。大きく言えばこれが派閥の構図だ。当時のアメリカ本社は、社長、副社長ともAV部門の出身だった。そこに、日本本社で、パソコン出身の社長が就任し、重要部門が次々にパソコン部門の時の部下で固められていった。
結構露骨な、贔屓人事、イエスマンで周りを固める雰囲気がアメリカまで伝わってきた。
そこから、日米のトップの関係も微妙になっていた。本体トップがパソコン出身、アメリカのトップはAV出身というのが影響しているようだ。そんな折、パソコン出身の上司が西海岸に赴任し、リモートで東に住む私の上司となってから、露骨に仕事がやりにくくなっていた。
「(アメリカのAV出身の)社長や副社長と話しているヒマがあったら、売り上げをあげて。あの人たちに何を報告したって売り上げはかわらないから。」
上司は、よく私にこう言った。私は、E-Commerce部門立ち上げの創業メンバーだったのもあり、アメリカ本社、東海岸の社長、副社長に、一大プロジェクトであるオンラインビジネスの定期報告をする機会が多かった。しかし、それをするな、というのだ。ややこしい立場だ。
ちなみに、この時の財務副社長は、その後本社でも最高財務責任者に就任した、人望も実力もある方だった。そして、上司に言われた通り、報告のオフィス訪問をしばらくしないでいると、月に一度は報告に来なさい、と言われ、結局上司に嫌われるのを覚悟で報告を再開し、ますます上司との溝は深まっていった。サラリーマンというのは難しい仕事だ(笑)
その上司は、日本から来たばかりだというのもあり、アメリカのインターネットの複雑な 分野で詳しくない部分があった。それもあり、創業メンバーとして最初から加わっていた私を指名で、日本からプロジェクトの依頼が入る事も少なくなかった。いろいろな意味で、上司からみれば煙たい存在なのは感じていた。