母の死を知ったのは、成田空港だった。
成田に着いて、荷物が出てくるのを待つ間に日本の携帯の電源を入れると、留守電が27件も入っていて、そのほとんどが父親からだった。
「あ、お父さんだけど、大至急電話下さい。」
25件、ほぼ全く同じ留守電だった。
そのうちの最初の数件を聞いて、すぐに父親に電話を入れた。
「一体何があったの?」
「いや、別に何もないよ。」
「何であんなに留守電残したの?」
「ん?残したっけ?」
この頃は認知症が一番進んでいたので、いくら質問してもこれ以上の答えが帰ってこないので、話題を変えた。
他愛もない話をしていると、私のスーツケースがターンテーブルから出てきた。そこで私は父に言った。
「じゃ、そろそろカバンが出てきたから、切るよ。
今、お母さんは何してるの?」
「だから死んだよ。」
「え?!
何???
どういうこと?
今なんて言った?!」
「だからお母さん死んだよ、昨日。」
「え?死んだ?お母さんが?
何があったの???」
この質問にも、おそらく認知症に加えて動転していた父は、明確に答えられなかった。
そこで、成田からの車中で、残りの留守電を聞き、親戚に折り返しをし始めた。
話を要約すると、私が日本に帰る前日昼過ぎに、母親が台所で、突然胸が苦しいと言って倒れこんだ。父親が大慌てで救急車を呼んだが、救急車の中で心臓が止まり、そのまま帰らぬ人となった。
あっという間の出来事だったようだ。
その後で気づいたのだが、父親からの留守電は、夕方6時過ぎから始まって、夜中の2時過ぎまで続いていた。普段9時過ぎには就寝する早寝の父親からするとありえないことで、ここからも父親の動揺がわかった。
その日、まずは都内の宿にチェックインして親戚と引き続き連絡を取った。
話を総合すると、遺体は実家近くの葬儀社にあり、すべての打ち合わせは私がついてからということになっているらしい。
明日があるから無理にでも寝ておこうとベッドに横たわり、少しうとうとしかけたその瞬間、見えない誰かが私に触れて、私は飛び起きた。
それは、飛び起きたというのが正確な表現で、仰向けに足を伸ばして寝ていたのに、まるで映画、「ゴースト」の中であちらの人がこちらの人に触れた時みたいに、私の体が仰向けのまま20センチほど飛び跳ねた。
これは母親だ!と感じ、そして、何かやるべきことがあるのだろうとメールチェックをすると、あった。葬儀関係ですぐに返事をした方がいいメールが身内から届いていた。
あの起こし方はまるで、ほら、メールの返事をしなきゃダメでしょ!
と言わんばかりの起こし方で、せっかちな母親らしいと苦笑いした。
結局朝まで眠れず、朝一でレンタカーを借りて、横浜の実家に向かった。でも、前がよく見えない。運転に集中しようとしても、涙が止まらない。溢れ出る涙とはこのことで、どうにもコントロールが効かない。母親とは色々あって、それらの思いが一気に表に出てきた気がした。