選択に良いも悪いもない、どの道を選んでもそこに成長と学びがある。これは、私が心から信じている考え方でした。
どんなに大変に思えることにも、辛い経験にも、迷ったことも悩んだことも、そこに成長があれば成功、そんな考え方を、いつも選ぶようにしていました。実際、そういう観点で、出来事の学びを探すと、必ずみつかったのです。そして、クライアントの方にもそう話して来ました。
そこで今回の出来事も、まずは中立に、良し悪し、善悪の判断から距離を置くことを心がけてみました。さて、
善悪を手放すと、残る質問は、私は何をしたいのか? でした。
私は、どうしたら幸せなのか?
どんな人生を過ごしたいのか?
何に喜びをみつけるのか?
それらが、今の結婚生活にあるのか?
そうした、魂レベルの自分の気持ちを問うことが、何より重要に思えました。私は、人生の重要な決断は、周りとの相談を最低限にするようにしています。というのは、周りと話すと、当然ながら、その方の意向に少なからず影響を受けるからです。アドバイスを、客観的に出来る人は、意外に少ないものです。
相談した相手が、例えば、結婚は続くことに意味がある、離婚はできるだけ避けた方がいい、と考えていたら、その時点で、すべては成長、と考える私の考えと異なり、特定の結果へ導こうとする力と接することになります。すると、自分の気持ちがかえってわかりにくくなります。アメリカには、結婚カウンセラーが大勢います。しかし、私は、本件は結婚カウンセラーとは話さないと決めていました。
結婚カウンセラーの一部では(全てではありません)結婚を継続させる成功率が、カウンセラーの成功と考えられていました。つまり、そうした考えを持つ彼らの通信簿は、何はともあれ、結婚を継続する結論に導くことで決まるわけです。
先日、アメリカ人の長年の友人から、夫婦関係の相談を受けました。話をした後、彼女はこう漏らしました。。「こんな客観的で中立なアドバイスを聞いたのは初めてだわ。親は離婚はいけないことだっていうし、結婚カウンセラーには一年以上通って大枚をはたいたけど、いかに結婚を継続させるか、という視点で話すから、私の本当の気持ちを相談できないのよ。」
特定の結果を導くコントロール。これから距離をおくには、自分の内側に聞くのが一番でした。そして、自分との対話を続けました。
ところで、私には、2人の子供がいます。当時15歳の息子と、10歳の娘です。親だから当たり前ですが、2人の子供は、私にとってかけがえのない存在です。一緒にいるだけで楽しく、成長を見るのは他で得難い喜びでありました。
果たして、私は子供と離れて暮らして幸せなのか?
これは、妻との関係に輪を掛けて、大きなテーマでした。また、もう1つの点は、仮に、このまま離婚ということになったら、それを子供はどう受け止めるか、でした。優しくて、でも、時にすべてを背負う傾向のある息子は、離婚は、自分に何かが足りないからと思いはしないだろうか?
ワークショップや個人セッションで、親の離婚は自分がいけない、と、何十年も思っていたというケースをよくみたので、自分がその原因を作る可能性を考えると複雑な気持ちです。また、明るく活発だが、喜怒哀楽もはっきりしている娘は、離婚に対して私に怒りを感じ、数年口を聞いてくれないことにならないだろうか?こんな思いも頭をよぎりました。
さて、そうこうしている間にも、家庭の雰囲気は変わっていきます。それは、私に原因がありました。私は、話すことを仕事にしていますが、仕事で話す人は、タイプが2つに分かれると言われています。
1つ目のタイプは、外では話すが、家に帰ると無口な人。
もう1つのタイプは、外でも話し、家でも話す人。
私は、明らかに後者でした。瞑想もするし、一人の時間もとりますが、毎回の食卓では、会話と笑いが絶えない家庭でありました。が、継続的なやりとりの中で、私の心の元気に変化が出てきました。どうがんばっても、楽しく快活に、とはいかなくなったのです。
ある映画で、こんな表現がありました。「愛がない所に、愛があるふりをすることは出来ない。愛がある時に、愛がないふりをすることも出来ない。」
私は、自分の気持ちを隠して生きるのが、苦手な方です。思ったことを、感じ、話し、表現するのが、常に自分の生き方でした。このままでは、自分らしくいられない、そう感じ始めました。では、子供の件はどうするのだろう?
子供と離れる覚悟はあるのか?
子供を傷つけないことはできるのか?
子供に嫌われる覚悟はあるのか?
この答えを出さなければいけない日が、刻々と迫ってくるのを感じました。
今回はここまでにします。
続きはその3に書きます。