私のスピリチュアルな離婚物語-第2章

第2章:事実と解釈は、得てして異なる

前回投稿の第一話には、個人メール宛に、また、FBにて、様々な反応を頂きました。すべて個別にお答えしようとすると、それだけで数日かかってしまうので、ここで代表的なご質問にお答えしてから、続きを書いてみたいと思います。

Q1「礒さん、大丈夫ですか?心配になります。」

ご質問の、大丈夫、が、私が大丈夫か、でしたら、私は大丈夫です(笑)何しろ、こうして元気に書いておりますから。

ご質問の、結婚が大丈夫か、でしたら、続きをお待ちください。

こうして頂いたメールでは、特定の結果が「良い結果」という想定が見受けられました。でも、何が良いかは、実は個人によって異なります。

神との対話に、こんな一節があります。「あなた個人の良し悪しの観点から、相手の結果を判断しない方がいい。」これは、本人の魂の目的や、人生の学びのテーマの点からは常に最適なことが起きているから、そのスピリチュアル的意味を知らずに周りが安易に善悪の判断をすべきではない、と言う意味です。この深い意味がわかると、何が良いか、何が悪いかの考え方が根底から変わります。

1つ、関連して、わかりやすい例を出します。

私が若かりし独身の頃、ある治療院で、つきあっている彼女がいるの?と聞かれたことがあります。その時は特定の相手がいなかったので、いませんよ、と答えると、その方の反応は、「それは寂しいわね」というものでした。

さて、当時、私は、デートにお金と手間のかかる女性と一区切りついて、一人を楽しんでいるところでした。ですので、自分で気づいている限りでは、寂しいどころか、かなり開放感を満喫していました。寂しい、というのは、その方の解釈でしかありません。

事実と解釈は、得てして異なるものです。

では、ここから続きを書いてみます。

選択に良いも悪いもない、どの道を選んでもそこに成長と学びがある。これは、私が心から信じている考え方でした。

どんなに大変に思えることにも、辛い経験にも、迷ったことも悩んだことも、そこに成長があれば成功、そんな考え方を、いつも選ぶようにしていました。実際、そういう観点で、出来事の学びを探すと、必ずみつかったのです。そして、クライアントの方にもそう話して来ました。

そこで今回の出来事も、まずは中立に、良し悪し、善悪の判断から距離を置くことを心がけてみました。さて、

善悪を手放すと、残る質問は、私は何をしたいのか? でした。

私は、どうしたら幸せなのか?

どんな人生を過ごしたいのか?

何に喜びをみつけるのか?

それらが、今の結婚生活にあるのか?

そうした、魂レベルの自分の気持ちを問うことが、何より重要に思えました。私は、人生の重要な決断は、周りとの相談を最低限にするようにしています。というのは、周りと話すと、当然ながら、その方の意向に少なからず影響を受けるからです。アドバイスを、客観的に出来る人は、意外に少ないものです。

相談した相手が、例えば、結婚は続くことに意味がある、離婚はできるだけ避けた方がいい、と考えていたら、その時点で、すべては成長、と考える私の考えと異なり、特定の結果へ導こうとする力と接することになります。すると、自分の気持ちがかえってわかりにくくなります。アメリカには、結婚カウンセラーが大勢います。しかし、私は、本件は結婚カウンセラーとは話さないと決めていました。

結婚カウンセラーの一部では(全てではありません)結婚を継続させる成功率が、カウンセラーの成功と考えられていました。つまり、そうした考えを持つ彼らの通信簿は、何はともあれ、結婚を継続する結論に導くことで決まるわけです。

先日、アメリカ人の長年の友人から、夫婦関係の相談を受けました。話をした後、彼女はこう漏らしました。。「こんな客観的で中立なアドバイスを聞いたのは初めてだわ。親は離婚はいけないことだっていうし、結婚カウンセラーには一年以上通って大枚をはたいたけど、いかに結婚を継続させるか、という視点で話すから、私の本当の気持ちを相談できないのよ。」

特定の結果を導くコントロール。これから距離をおくには、自分の内側に聞くのが一番でした。そして、自分との対話を続けました。

ところで、私には、2人の子供がいます。当時15歳の息子と、10歳の娘です。親だから当たり前ですが、2人の子供は、私にとってかけがえのない存在です。一緒にいるだけで楽しく、成長を見るのは他で得難い喜びでありました。

果たして、私は子供と離れて暮らして幸せなのか?

これは、妻との関係に輪を掛けて、大きなテーマでした。また、もう1つの点は、仮に、このまま離婚ということになったら、それを子供はどう受け止めるか、でした。優しくて、でも、時にすべてを背負う傾向のある息子は、離婚は、自分に何かが足りないからと思いはしないだろうか?

ワークショップや個人セッションで、親の離婚は自分がいけない、と、何十年も思っていたというケースをよくみたので、自分がその原因を作る可能性を考えると複雑な気持ちです。また、明るく活発だが、喜怒哀楽もはっきりしている娘は、離婚に対して私に怒りを感じ、数年口を聞いてくれないことにならないだろうか?こんな思いも頭をよぎりました。

さて、そうこうしている間にも、家庭の雰囲気は変わっていきます。それは、私に原因がありました。私は、話すことを仕事にしていますが、仕事で話す人は、タイプが2つに分かれると言われています。

1つ目のタイプは、外では話すが、家に帰ると無口な人。

もう1つのタイプは、外でも話し、家でも話す人。

私は、明らかに後者でした。瞑想もするし、一人の時間もとりますが、毎回の食卓では、会話と笑いが絶えない家庭でありました。が、継続的なやりとりの中で、私の心の元気に変化が出てきました。どうがんばっても、楽しく快活に、とはいかなくなったのです。

ある映画で、こんな表現がありました。「愛がない所に、愛があるふりをすることは出来ない。愛がある時に、愛がないふりをすることも出来ない。」

私は、自分の気持ちを隠して生きるのが、苦手な方です。思ったことを、感じ、話し、表現するのが、常に自分の生き方でした。このままでは、自分らしくいられない、そう感じ始めました。では、子供の件はどうするのだろう?

子供と離れる覚悟はあるのか?

子供を傷つけないことはできるのか?

子供に嫌われる覚悟はあるのか?

この答えを出さなければいけない日が、刻々と迫ってくるのを感じました。

今回はここまでにします。

続きはその3に書きます。

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