離婚、の文字が頭をかすめる時に、誰もが直面する決定的な事実がある。それは、子供とは血縁があり、配偶者とはそれがないということだ。
では、何が結婚している二人をつなげているかと言えば、それは、法的には一枚の書類であり、スピリチュアル的には愛である。
つまり、固定概念から離れて、結婚を見直す時には、結局、お互いに、結婚を続けたい気持ちがあるか、に行き着く。
一方、子供とは、血縁があり、それは一生続く。どこに住んでも、別々になっても、それは変わらない。そこから、離婚を考えたとき、配偶者との別れと、子供との別れで、それぞれ異なる葛藤、感情とつきあうことになる。
そこで、また同じ質問に戻ることになる。
私は、子供と離れる覚悟はあるのか?子供を傷つけないことはできるのか?子供に嫌われる覚悟はあるのか?
ここで、困ったことがある。それは、実は、こうした時にどうしたらいいか、
その答えを、私は既に知ってしまっていたのだ。
私には、いくつか、人生の指針として、信じていることがある。その1つは、本当に、全ては成長に繋がるということ。この出来事でも、思考しているプロセスそのものが成長なので、成長が加速しているのを実感した。
もう1つの法則。
これは、個人セッションやワークショップでよく話していたことだが、巷の常識とは異なる、理解に時間がかかる法則。
それは、自分が幸せになる道を選んだら、その周りの人にとっても、その結果が最適になる、ということ。具体例を挙げよう。
このお話は、以前メルマガでとりあげたことがあるかもしれない。
ある女性は、少し依存症の傾向がある男性とおつきあいをしていた。あなたなしでは生きられない、とすがる男性を突き放すのには、罪の意識を感じるが、一緒にいて幸せにはなれない、と、女性は言う。でも、原則はここでも一緒。自分の一番の幸せを選ぶと、相手にも最適な出来事になる。ただし、最適な選択は、相手が喜ぶとは限らない。
最適の意味は、成長の意味で最適、ということ。しかし、成長をするので、後になって、喜びに変わることは多い。この例では、男性が依存症ならば、依存症の手助けをし続けることが本人の成長の助けになるか?と考えると、ある時点で、解放してあげることが、最高のご褒美になることに気づく。
ビジネスでも同じ。起業をしたいが、配偶者が反対しているとする。でも、本人が、どうしてもチャレンジしたいのならば、それは幸せを選択するのが一番。その出来事は、配偶者が、お金への不安に直面し、克服する成長の出来事かも知れない。あるいは、配偶者が貴方を心から信じて、また愛していなかったことに気づく出来事かも知れない。
これらは、拙著、
「あなたの経験には意味がある」にても書いたとおりだ。
離婚も例外ではない。本人が、自分に一番幸せな道を選ぶと、その結果は、相手にも最適になる。
こうした原則が働いている宇宙の仕組みは、これまでのクライアントの例をみてきて、私の中では確信となっていた。
だったら、迷う必要がないのでは、と思われる方もいるだろう。あるいは、ならばすぐに結論が出るのでは、と思う方もいるだろう。
実は、結論は、早い時期に出ていた。
私の内側では、この結末をどこかで知ってしまっていた。
それを、決断にするには、私が、頭で考えた事、ハートで感じた事、それらが五臓六腑に「腑に落ちる」事として、自分の中でシンクロを経験する必要がある、と感じた。
そこで、その為の、自分との対話を持つことにした。
私は、その場所に、京都を選んだ。京都に行ったのは、偶然でもあり、必然でもあった。前から気になってはいたものの、なんとなく延ばし延ばしになっていた。でも、それは、きっと、このタイミングを待っていたのだろう。
いくつかの「偶然」が重なって、2011年の夏、私は8年ぶりに、京都を訪れた。京都では、実にいろんな出来事が起きた。一言で言うと、まるで、今、ある答えに近づいている私を、宇宙が後押ししていると思えるような、不思議な体験が、次から次へと起きた。
タクシー、と思った瞬間に、人通りもない道に、突然タクシーが毎回現れた。
暑い日に、ハンカチを忘れたと気づいたら、目の前にハンカチ専門店があった。
おいしい蕎麦を食べたいと思っていたら、タクシーの運転手が目的地の近くにおいしい蕎麦屋がある、と連れていってくれた。
他にも、思い出せないほどのシンクロがあり、毎日が、不思議な喜びの連続だった。
そして、その瞬間、は訪れた。
その日、私は、1日かけて、鞍馬山を歩き続けていた。汗がしたたる暑い日に、水を飲み、汗をぬぐいながら、自分の鼓動を感じて、山道を歩き続けた。急な勾配の山道を登り、そして、階段を上り始めた。階段に足を踏み出している途中、次のステップを踏んだその瞬間に、全てがわかってしまった。私が、何をしたら幸せであるかを。今回、どの選択が、自分にとって一番の選択かを。そして、子供のことも。
全ての細胞が、これから起きる出来事を喜びで受け取る準備が出来た、そんな感覚を手にした。階段に足を踏み出した、その瞬間に、全てが見えてしまったような感覚だった。これは、瞬間の出来事だった。
階段に、特別な仕掛けがあったわけではない。鞍馬山でないと、その答えがおりなかったわけではないと思う。それまでの気持ち、思考を経て、自分で考え消化してきた全てのプロセスが、その「瞬間」へと導いた – そんな不思議な感覚だった。
気持ちは固まった。
ただ、もう1つ、答えをみつけておきたいことがあった。それは、私の健康に関することだった。
今回はここまでにします。
続きはその4でお読み頂けます。